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上里・毘沙吐は人口ゼロ、集落の移転を決定づけた大洪水から180年

埼玉県最北端の地・上里町大字毘沙吐は人口ゼロ

埼玉県最北端の地・上里町大字毘沙吐は人口ゼロ

 上里町の大字「毘沙吐(びしゃど)」が8月、集落の移転を決定づけた1846年の大洪水から180年、埼玉県への編入から150年を迎える。  

岩倉橋から見た烏川

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 毘沙吐は神流(かんな)川と烏(からす)川の合流地点付近に位置し、群馬県高崎市に接する埼玉県最北端の地。現在は居住者のいない「人口ゼロの大字」として知られる。  

 地名は、村の神社で行われた春の農村行事「御歩射(おびしゃ)」と、場所を示す「処(と)」を組み合わせたとする説がある。金窪城の北に位置し、北の守護神とされる毘沙門天(びしゃもんてん)が祭られていたことに由来するとの説も伝わる。  

 江戸時代の毘沙吐村は幕府の直轄領で、約60軒の家があった。村内には三国道の渡船場や、烏川に設けられた川の港「藤ノ木河岸(がし)」があり、神流川と烏川を使った舟運や漁業が盛んだった。毎年、幕府にアユ1200匹、サケ42本を献上していたという。  

 上里町教育委員会発行の「上里町史料第13集」などによると、1846年8月27日(旧暦=7月6日)ごろに堤防が決壊。同年10月9日(旧暦=8月19日)ごろにも浸水し、その後、住民は対岸の新町(現在の高崎市新町)への移転を決めた。寺社や墓地を含む集落の移転は段階的に進み、1859年までに行われたとされる。1846年の水害では、村高150石のうち99石余に当たる田畑が、洪水で削られたり川筋になったりする「川欠(かわかけ)」の被害を受け、約60軒のうち27軒が流失したとされている。

 1868(明治元)年、毘沙吐村は岩鼻県の管轄となった。その後、1871(明治4)年に入間県、1873(明治6)年に熊谷県へ移り、熊谷県が廃止された1876(明治9)年8月21日に埼玉県へ編入された。その後、旧村民の生活と戸籍は群馬県側の新町へ移る一方、土地と「毘沙吐」の地名は埼玉県側に残ることになった。

 現在の上里町大字毘沙吐は、烏川を挟んで南北両岸に区域が残っている。旧毘沙吐村はもともと烏川の南側に位置していたが、烏川と神流川は洪水の度に流路を変えてきた。特に1846年の大洪水では村の土地の大半が川に削られ、その後も旧来の村境が残る一方で川筋が変化したため、川が区域の中を横切り、現在のように南北両岸に毘沙吐の区域が残る形になったと考えられる。  

 1872(明治5)年~1873(明治6)年ごろの絵図には、当時の烏川と旧流路を示す「古烏」が描かれており、少なくとも明治初期には、現在につながる複雑な土地の状態が生じていたことが分かる。  

 上里中学校と上里北中学校の校歌を作詞した詩人・宮澤章二さんは、埼玉県内各地を自ら歩き、その土地の風景や歴史を見つめた一連の作品「埼玉風物詩」の中で、毘沙吐を「消えてしまった村-毘沙吐」と題して詩に残している。

 同町在住の金井明人さんは「180年の節目は、川の恵みを受けながら営まれてきた村の暮らしと、大洪水によって人々が故郷を離れざるを得なくなった歴史を、改めて見つめる機会になる」と話す。

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