
神保原(じんぼはら)公民館(上里町神保原町)で6月5日と12日、歴史講座「郷土の歴史を学ぶ」が開かれ、上里町教育委員会の林道義さんが講師を務めた。
上里町教育委員会の林道義さん(撮影=上里町役場の「西崎キク特別展」会場)
林さんは北本市出身。東京農業大第三高校を卒業後、国学院大学を卒業し、同大大学院文学研究科(史学専攻・博物館学コース)を修了。2016(平成28)年4月より上里町の学芸員として、遺跡の発掘調査や古文書、民具の保存、展示、町の歴史の調査研究などをしている。
5日の講座では「明治時代の神保原/神保原周辺の近代化と鉄道敷設」をテーマに、神保原村の成立や鉄道の開通がもたらした変化を紹介。村の合併についても言及し、石神村・忍保(おしぼ)村・八町河原村から1文字ずつ取って「神保原村」となり、1954(昭和29)年に周辺の3カ村と合併して上里村が誕生したと説明した。
皇女・和宮の降嫁(こうか)にまつわる話にも触れた。1861年、東海道を通る予定だった和宮一行は、豪雨による河川の増水により中山道を経由することとなり、神保原地域もその通過ルートに含まれた。林さんは「15歳の和宮は10月20日に京都を出発し、11月11日に高崎を経て神保原を通過。本庄に1泊した後、14日に江戸城に入った」と話し、地域住民が道路改修や清掃、警護の補助などに駆り出されたことを紹介した。
12日の講座では「明治・大正時代の神保原/近代化を支えた養蚕(ようさん)と神保原」をテーマに、水害による荒地の活用と養蚕業の発展を取り上げた。幕末期、烏川や神流川の洪水で現在の神保原町周辺の田畑が被害を受けたことを受け、住民は土地を桑畑に転換。良質な桑の産地になり、蚕種を横浜港からヨーロッパに輸出するようになったという。
交通インフラ整備にも話は及び、1883(明治16)年に開通した高崎線に、1897(明治30)年、神保原停車場(現在の神保原駅)が設けられた際には、「9人の発起人のうち6人が養蚕関係者だった」と紹介。地元の実業家・阿佐美教平による「大和(やまと)組神保原製糸場」誘致や、駅と工場をつなぐ引き込み線の整備、1911(明治44)年に設けられた「神保原郵便局」などについても説明した。
林さんは「町内には古代の遺跡や古墳も多く、個人的にも興味関心が尽きない。文化財は地域の皆さんが関わり、盛り上げることで本当の意味で継承される」と話す。